「デジタル時代の夢と権力――「夢の危機」と「夢見る権利」」【#新記号論 発売記念】


  
 

 

 
ゲンロン叢書002『新記号論』が発売されました。これを記念して、第2講義「フロイトへの回帰」の一部(pp.196-208)を無料公開いたします。
テクノロジーが夢を侵食する「夢の危機」の時代、人々の「夢見る権利」を考えなくてはならない――情報技術とフロイト、フーコーを鮮やかに結ぶ、スリリングな対話をお楽しみください。

 

デジタル時代の夢と権力――「夢の危機」と「夢見る権利」

 

石田英敬 さて、今日はここまで徹底して「文系」的というか、哲学的な話でしたが、最後にすこし脳科学の話もしたいと思います。

東浩紀 やはりもうひとつ話題があるのですね(笑)。楽しみです。

石田 いまなぜ「フロイトへの回帰」なのか。その具体的な問題として「夢」というテーマを取り上げましょう。
フロイトは一九〇〇年に『夢解釈』を書きましたが、それから一世紀を経て、いまデジタル時代になって「夢」の解読がアクチュアリティを持ってきています。そこで、夢のテクノロジー化がどのような問題を突きつけているのかを考えてみたい。というのも、ぼくはじつは、「夢とはなにか」をもういちど考えないと、いまの世界の問題は解けないと思っているんです。夢の問題を通じて、フロイトの重要性が浮かび上がってくる。そういう構図でお話しします。

 夢のテクノロジー化ですか。

石田 はい。近年、しばしば議論に挙がる本に、アメリカの文化学者ジョナサン・クレーリーの『24/7 眠らない社会』[★1]があります。アメリカ軍で行われている、眠らずに活動しつづけるための訓練の描写から始まる本書は、二一世紀は二四時間×七日の資本主義になりつつある、つまり資本主義が「眠り」の領域まで侵食していることに警鐘を鳴らすものです。その意味で、現代は「夢見る権利」が危機に晒されている時代です。
ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』[★2]もまた、睡眠を破壊する「拷問」のテクノロジーの開発の話から始まっています。カナダの大学で行われたショック療法の研究です。「昼と夜」の区別をズタズタにすることで、昼夜の「交替」が廃絶されて、「ホワイトアウト」の世界が訪れる。そうして人格が「初期化」される。眠りの時間を与えない体制は、破壊的なテクノロジーによってドライブされる可能性があるわけです。
他方で、テクノロジーの発達によって、「スリープ・モード」で待機しているコンピュータマシンにヒトの眠りの活動が接続され、夢がスキャンされ解読されるということも起きつつあります。たとえば、日本の国際電気通信基礎技術研究所(ATR)内の研究グループは、睡眠中のヒトの脳活動パターンから見ている夢の内容をあるていど解読することに成功し、『サイエンス』誌のオンライン版にも掲載されています。研究室のホームページには、その概要がつぎのように紹介されています。

 この研究では、機能的磁気共鳴画像(functional magnetic resonance imaging,FMRI)装置を用いて睡眠中の脳活動を計測し、被験者を覚醒させ直前の夢の内容を言葉で報告させる手続きを繰り返しました。一般的な物体(「本」、「クルマ」等、約20の物体カテゴリー)の有無を脳活動パターンから予測するパターン認識アルゴリズムを構築し、睡眠中の脳活動を解析することで、夢に現れる物体を高い精度で解読することができました。また、夢内容の予測には、実際に画像を見ている時に活動する脳部位のパターンが有効であることから、夢を見ている時にも、画像を見ている時と共通する脳活動パターンが生じていることが分かりました[★3]。

つまり、夢の内容を被験者に報告させ、それと脳の波形のパターンとマッチングさせるわけですね。そして、そのデータをためていくと、脳活動のパターンから、女の顔が見えたとか、ビルが見えたとか、クルマが見えたといったことがわかるという。

 寝ているひとの夢をリアルタイムで解読しているのですか?

石田 厳密に言えばリアルタイムに「解読」ではないですね。レム睡眠のときにヒトは(動物も)夢を見るということはわかっているので、そこで被験者を起こして、つぎつぎとデータをためていくという方法を取っているみたいです。データを蓄積するとかなり予測可能になるという結果が出ている。だから厳密に言えばリアルタイムで「予測」あるいは「推測」していることになる。かれらの研究はユーチューブでも確認できます。

 うーむ!こんな研究がされているとは驚きです。これはどのような応用が想定されているのでしょう。

石田 いま見たように、ぼくたちの社会はますます眠らなくなると同時に、眠っているあいだすら、マシンと常時接続して夢が解読されるようなところまで進んできている。それは、ドゥルーズ的なコントロール社会[★4]を超えたハイパー・コントロールな社会というものが、技術的な射程に入っていることを意味します。
さらに数年前には、グーグルによって、人工知能に夢を見させる「ディープ・ドリーム」のプロジェクトが話題になりました。イギリスの『ガーディアン』紙は、このプロジェクトを「そう、アンドロイドは電気羊の夢を見るのだ Yes, androids do dream of electric sheep」という見出しで報じています[★5]。これはAIに映像を与えると、夢をジェネレート(生成)するというものです。

 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』はフィリップ・K・ディックの有名な小説のタイトルですが、ディックもこのような夢にはうんざりかもしれませんね。

石田 これらはまだどれも萌芽的な取り組みです。けれども、いずれ機械学習させて、ビッグデータを蓄積するという話になるでしょう。そうすれば精度がどんどん上がっていきます。だから、夢のデコーディングが社会に実装される可能性は非常に高い。夢を「解読する」つまり「書き取る」ことができるようになれば、夢を見させたり、人工的に書き換えるプロジェクトが当然進んでいくでしょう。夢のなかにコマーシャルを流すようなことさえ、夢ではないかもしれない。

 夢の読み取りは、プライバシーの究極の侵害とも言えます。

石田 ハイパーコントロール社会においては、こんな夢を見たからおまえを逮捕するということだってないとは言いきれません。

 たしかに、性犯罪の常習者などではありうるのかもしれません。たとえば夢のなかで子どもに性犯罪を行う願望が見られたら、逮捕はしないまでも関係機関に通報し、要注意人物に指定するといったことです。これからの時代だと、世論もそのような処置に肯定的である可能性があります。性犯罪の前科がある人間は、定期的に夢判断機関みたいなところに送り込まれるというのも現実的かもしれません。二〇世紀生まれの人間としては断固抵抗したいところですが、そのような状況はいまの人権では想定されていないでしょう。

石田 だとすれば、「夢の危機」に対して、「夢見る権利」を人権に書き込むことを真剣に議論することさえ必要かもしれない。ハイパーコントロール社会では、ハーバーマスの言う「生活世界の植民地化」[★6]やフーコーの「生政治」[★7]が、眠りと夢という領域のなかにまで食い込んでくるわけだから。
フロイトは「夢とは願望充足である」と言いましたが、テクノロジーによる夢の解釈が人間による解釈に取って代わられる状況を、フロイトならどう考えるでしょうか。決してフロイト主義者ではないぼくが、それでも「フロイトへの回帰」を主張しているのは、「夢」の解釈をめぐる認識論的なせめぎ合いが、これから拡がっていくだろうと予測しているからです。

 

夢と現実の決定不可能性

 

 なるほど。無意識の可視化があらたな技術により可能になるなかで、今後は「無意識の欲望に対する責任」といった問題が発生してくるだろうということですね。たしかにそんな問題はフロイトは考えもしていなかっただろうし、現代哲学に照らしてもぱっと回答は思いつきません。そもそも責任の問題系と、無意識や欲望といった問題系は結びつきにくい気がします。すこし調べてみたいところです。

石田 そのときに人文学者としては、夢についてこれまでどんなことが問われたのかということを考えなければならないわけです。たとえば、フーコーの最初の仕事は「ビンスワンガーの『夢と実存』への序論」だよね。これは、ビンスワンガーの『夢と実存』という現存在分析の本にフーコーが序論をつけたもので、ぼくが日本語に訳しました[★8]。
フロイトが『夢解釈』でいまのフロイトになったのと同じように、フーコーがいまのフーコーになったのは、『狂気の歴史』からだと一般的には考えられています。だから、そのあとの人文学者は、「狂気とはなにか」「監獄とはなにか」「権力とはなにか」「性とはなにか」といった問題を、フーコーに倣って考えてきました。
でも、フーコーはそれよりまえに、「ビンスワンガーの『夢と実存』への序論」を世に問うています。二〇世紀にフーコーが立てた知と権力とテクノロジーの問題は、デジタル時代にはさらに強い強度で問われる必要があります。そのときに、フーコーの最初の著作がヒントになるかもしれない。「夢と権力」「夢と資本主義」というあらたな問題設定をする力が、いま人文学者に求められているわけです。

 フロイトと同じく、フーコーも読み直す必要があると。フーコーは、その著作以外では夢について語っていないんですか。

石田 『性の歴史III 自己への配慮』[★9]で、ギリシャにおけるアルテミドロスの夢占いの話をしています。これはフーコーの最後の本ですよね。つまりフーコーの仕事は「夢と実存」で始まり、「夢占い」で終えられている。フーコーってそういうひとなんです。

 おもしろい。そういうふうにフーコーを見たことはありませんでした。

石田 夢の問いというのは、ある意味で、意識や心の問題よりむずかしい。だって、夢の「エビデンス」はどこにあるのかと考えると、非常にむずかしいでしょう。最近の人工知能論のような「機械は心を持てるか」といった問題は、すべて意識をベースにして考えられています。つまり、いまあなたがどういう意識を持っているかという問いを立てれば、心についての答えが見つかるだろうと考えている。これは、現在、「意識していること」がエビデンスになるからです。でも、夢にはそういう明証性はない。

 デカルト的な意味での明証性がない。夢には「いまここ」の経験が欠けている。

石田 そう。その場合、たとえばドリームデコーディングが発達したときに、「あなたが見た夢はこれでしょう?」と人工知能が言ったら……。

 反論可能性はないですね。なにを示されても、そうかもしれないという気持ちになる。

石田 同時に、それは実証可能でもない。いま見ている夢ではないから。

 なるほど。これはまたおもしろい問題ですね。「いまここ」の明証性がないところでの責任……。デカルト的明証性といえば、フッサールは夢についてなにか語っているんですか。

石田 たぶん多くは語っていないけれど、「像意識」とか「想像力」との関連で扱ってはいる。かれはフロイトにはすごい興味を持っているんです[★10]。

 「過去把持」や「現前性」の概念を展開するうえで、本来なら夢の話は考えるべきものだったはずですね。たいへん刺激的です。ぼくもいままで夢について考えたことがありませんでした。デリダはどうだったかしら。

石田 デリダ・フーコー論争[★11]では、デカルトの『省察』に出てくる夢のステータスが問題になっています。深入りはしませんが、これは、真理のステータスやエビデンスとはなにかということについての論争なんですね。まず『狂気の歴史』のフーコーは、デカルト的な理性は狂気を排除することで成り立つと主張しました。それに対して、狂気と夢との差とはなにか、そんなにきれいに狂気と理性の分割線は引けますかとデリダはかれらしくねちねちと批判しました。それが最初の論争なのですが、さらに一〇年後にフーコーが、じつはおれも夢については一家言があってねえ、夢と狂気はデカルトにおいてぜんぜんちがうのだよ、というような具合に激辛の反論を加えるという、けっこう泥仕合的な論争です。お互い勝手なことを言い合い、どっちが勝ったというようなことはない。まあ、すべての論争はそんなものでしょうが。
夢の解読はすばらしい研究だし、ぼくもすごく興味を持っています。でもそのつぎに控えているのは、デリダ・フーコー論争で問われていたような夢のステータスであり、真理のステータスという問題です。夢と現実の境はどこにあるのか。夢と現実の決定不可能性とはなにか。
夢は昼の覚醒の世界から不在となった状態で経験し、そして覚醒してから思い出す、というのがこれまでの人類の生活だったわけですよね。つまりは、夢については、それについて忘却したり思い出したり、解釈したりということが、意識の現前性ではなくて、不在から出発して行われる存在だったわけです。だからこそ、人々は夢の意味を幾通りにも解釈したり、忘却したり思い出したりすることができた。夢の解釈は実存の重要な領域を占めてきたわけです。
ところが、マシンが本人の目覚めよりまえに夢をデコーディングし、起きたとたんに夢内容の「エビデンス」を突きつけるようになると、夢内容の遅延とか決定不可能性とかという本質的に解釈学的な次元が消えてしまう。人間は、想像力の本質的な原動力としての夢の決定不可能性を喪失しますよね。

 だとすると、人文学はいまのうちに夢の哲学的地位を確定させる必要がある。そうでないと、文学や芸術の領域が本質的に奪われることになる。

石田 そうなんです。だから、これからは、あらためて「夢の文化」を再考する必要に迫られるはずです。根本美作子さんの『眠りと文学』[★12]が源氏物語や谷崎潤一郎を扱いながら述べているように、人間が夢について育んできた文化では、夢と現(うつつ)の区別が不確かで決定不可能な状態を見出すことはむずかしくありません。こうした夢の文化というものから夢の機能を見直すことも、人文知のだいじな役割でしょう。

 フロイトの再読から、ずいぶん遠くまで来ました。

石田 いや、これこそがまさにフロイト的問題なんですよ。そしてまた前回の講義でも見たような古代人の記号とも関係している。
フランスの著名な神経科医ミッシェル・ジュヴェが発見したレム睡眠もまた、夢と現という問題系と接続しています。レム睡眠の「レム REM」は、「Rapid Eye Movement(急速眼球運動)」から取ったもので、レム睡眠のあいだは、運動中枢はオフになっていますが、眼球は忙しく動きつづけ、脳も覚醒状態にあります。そして、さきほど言いましたように、夢はレム睡眠時に見ることがわかっています。
図20は、ラスコーの洞窟に描かれている、有名な鳥男の絵です。この形象がなにを意味しているのかは大きな謎とされていますが、ジュヴェはこれをレム睡眠の夢として読み解いています。レム睡眠中には勃起することが知られていて、鳥男も勃起しています。したがってこの絵は、クロマニョン人が空を飛ぶ夢を見ているというのです。レム睡眠はまた、眠っているのに脳は覚醒状態にあることから「パラドキシカル・スリープ」とも呼ばれます。つまり、覚醒と睡眠、脳と体、現前と不在、意識と無意識が複雑に捻れて幻覚が起こる状態です。


【図20(本編での通し番号):ラスコーの洞窟に描かれた鳥男の絵(左) https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Lascaux_01.jpg Public Domain】

ここでこそフロイトの問題が回帰します。フロイトは、今日も講義で見たように、最初は神経学的な知見をベースにして、テクノロジックに心の装置をモデル化しようとしていました。しかし、それに続いた夢解釈、そして精神分析の歩みは、まさに人生の意味の決定不可能性とともにあったのではないでしょうか。先述した「無意識はシネマトグラフィーのように構造化されている」という命題を思い出してください。フロイトの心的装置においては、ひとが睡眠に入ると、興奮が運動性と切り離され、感覚末端(知覚)へと向けて「退行」することで、幻覚的な夢の像の投影が引き起こされることになっていました。フロイトのそのような「夢の過程」の理論は、まさにレム睡眠を説明しているかのようです。
以上のうえで最後に結論を言えば、ぼくには、意識を問うよりも夢を問うほうが、人間の根本的な条件が逆にあぶり出されてくるはずだという予感があります。それは「人工知能とはなにか」を問うこととも深く通底しているはずです。
といったところで、今回もさすがに時間かな?

 はい、時間です。このやりとりも二回目ですね(笑)。続きは次回に回させてください。(『新記号論』へ続く)

 
構成=斎藤哲也
註=石田英敬・編集部(石田作成の註に関しては、註の後に(石田)と記した。特に表記がない註に関しては編集部が作成)

★1 ジョナサン・クレーリー『24/7――眠らない社会』、岡田温司監訳、石谷治寛訳、NTT出版、二〇一五年。
★2 ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン─―惨事便乗型資本主義の正体を暴く』、幾島幸子、村上由見子訳、岩波書店、二〇一一年。
★3 「睡眠中の脳活動パターンから見ている夢の内容の解読に成功」URL= https://bicr.atr.jp/dni/research/睡眠中の脳活動パターンから見ている夢の内容の/
★4 ドゥルーズは晩年の「管理と生成変化」「追伸――管理社会について」(『記号と事件』、宮林寛訳、河出文庫、二〇〇七年)において、フーコーが『監獄の誕生』(一九七五年)で論じた「規律訓練型社会」(人々が訓練によって規律を内面化した社会)に代わり、「管理社会」が到来しつつあると指摘した。規律訓練型社会が規律訓練(ディシプリン)によって人々の内面をつくり替えるのに対し、コントロール社会ではあらゆるものがデータ化され、それにもとづく環境の操作によって内面とは無関係に人々が管理される。
★5 URL= https://www.theguardian.com/technology/2015/jun/18/google-image-recognition-neural-network-androids-dream-electric-sheep
★6 ユルゲン・ハーバーマスは、政治や経済といった社会的「システム」によって人々の私的な生活(「生活世界」)が植民地化されていることを批判し、システムとは異なる、コミュニケーションにもとづいた公共性の必要を論じた。
★7 「生政治 biopolitique」はフーコーが晩年に論じた概念のひとつ。『性の歴史I 知への意志』(一九七六年)の終盤に登場し、同時期のコレージュ・ド・フランスの講義の中心となった。近代以前の権力が殺すこと=死によって機能していたのに対し、近代における生政治では、人口を安定的に維持・拡大し、人々を生きさせる権力(=生権力)が機能しているとされる。のち、ジョルジョ・アガンベンやアントニオ・ネグリらの思想に引き継がれた。
★8 ミシェル・フーコー「ビンスワンガー『夢と実存』への序論」(石田英敬訳)、『ミシェル・フーコー思考集成I 狂気・精神分析・精神医学』、蓮實重彦、渡辺守章監修、筑摩書房、一九九八年、七七-一四八頁。
★9 ミシェル・フーコー『性の歴史III 自己への配慮』、田村俶訳、新潮社、一九八七年。
★10 フッサールの現象学ではもっぱら覚醒した意識が考察の対象となる。そのために夢が考察の中心となることは稀である。とはいえ、想像、像意識をテーマとするフッサール全集の巻(Phantasie, Bildbewusstsein, Erinnerung. Zur Phänomenologie der Anschaulichen Vergegenwärtigungen. Texte aus dem Nachlass (1898‐1925). Husserliana, Band XXIII, Den Haag, Martinus Nijhoff, 1980. 『想像、像意識、想起』未邦訳)では、夢における意識の現在がどのような成り立ちをもつのかという「準‐現前化」に関する考察を随所で読むことができる。夢の問題を発展させたのはフィンクやビンスワンガーら、フッサールの弟子たちの世代である。
他方、フロイトとフッサールの間には、一九世紀末のウィーン大学で同じようにブレンターノの講義に出席し、同じ一九〇〇年を刊行年としてそれぞれ『夢解釈』と『論理学研究』を出版して独自の境地を開き、一方は無意識の問題、他方は意識の問題を究めていったという興味深い平行関係がある。相互の仕事への参照は刊行物について皆無だが、近年のフッサール研究では、想像や像意識のほか、欲動や情動、自我の受動総合に関して、フッサールがフロイトの仕事を念頭に執筆を続けていたことが明らかにされつつある。(石田)
★11  デリダ・フーコー論争とは、デリダの「コギトと狂気の歴史」(『エクリチュールと差異』、合田正人ほか訳、法政大学出版局、二〇一三年、六一-一二三頁)に端を発する論争のことを指す。デリダはフーコーの『狂気の歴史』における、デカルトの「コギト」が狂気を排除していたとする解釈は『狂気の歴史』再版に際して反論「私の身体、この紙、この炉」(増田一夫訳、『フーコー・コレクション3』、ちくま学芸文庫、二〇〇六年、三九一-四四四頁)を加え、両者は長きにわたって決裂することとなる。
★12 根本美作子『眠りと文学――プルースト、カフカ、谷崎は何を描いたか』、中公新書、二〇〇四年。

石田英敬(いしだ・ひでたか)
一九五三年生まれ。東京大学教授。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学、パリ第10大学大学院博士課程修了。専門は記号学、メディア論。著書に『現代思想の教科書』(ちくま学芸文庫)、『大人のためのメディア論講義』(ちくま新書)、編著書に『フーコー・コレクション』全六巻(ちくま学芸文庫)ほか多数。

東浩紀(あずま・ひろき)
一九七一年生まれ。作家。ゲンロン代表取締役。主著に『動物化するポストモダン』(講談社)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、三島由紀夫賞受賞)、『一般意志2・0』(講談社)、『弱いつながり』(幻冬舎)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)等。東京五反田で「ゲンロンカフェ」を営業中。

 

 

本体価格 2,800 円 + 税
ゲンロン叢書002
ソフトカバー・四六判 本体450頁 2019年3月発行 ISBN:978-4-907188-30-6


  
【目次】

  • はじめに 東浩紀
  • 講義 石田英敬+東浩紀
  •  
    第1講義 記号論と脳科学
    メディア論の問い/なぜ記号論は廃れたのか/現代記号論の限界/技術的無意識の時代/フッサールは速記で考えた/チャンギージーの発見/ヒトはみな同じ文字を書いている/ドゥアンヌの読書脳/ニューロンリサイクル仮説/一般文字学はなにをすべきか
     
    第2講義 フロイトへの回帰
    不思議メモ帳の問題/語表象と対象表象/『夢解釈』読解における新発見/意識はどこにあるのか/夢のシネマ装置/超自我は聴覚帽の内在化である/人文学の危機/ライプニッツに帰れ/アンドロイドは電気羊の夢を見る/ドリームデコーディング/夢の危機と夢見る権利
     
    第3講義 書き込みの体制(アウフシュライベジステーム)2000
    1 情動と身体――スベテが「伝わる」とき
    フロイトとスピノザ/ダマシオ『スピノザを探して』/『神経学的判断力批判』の可能性
    2 記号と論理――スベテが「データ」になるとき
    記号のピラミッドと逆ピラミッド/パースとデリダ/人工知能の原理/記号接地問題/ふたつの現象学
    3 模倣と感染――スベテが「ネットワーク」になるとき
    スピノザと模倣/光学モデルの限界/資本主義の四つの柱/なぜ記号論か/六八年革命の評価/
    タルドとドゥルーズ=ガタリ/書き込みの体制2000にどう向き合うか

  • 補論 石田英敬
  • 4つの追伸 ハイパーコントロール社会について
    文字学、資本主義、権力、そして自由

  • おわりに 石田英敬
  •